「東大卒なのになんでダンスのプロなんかになっちゃったの?(仮)」vol.8
自分は(一応)東大卒だということを思い出す
知らぬ間にカビが生え異臭漂う存在に成り果てていた僕だが、文字通りいつまでも腐っているわけにはいかなかった。
働かざるもの食うべからず、これは古より変わらない鉄の掟である。
しかし僕はといえばやっているのは実家のコンビニの手伝いくらいだった。
「いらっしゃいませー」「お弁当温めますかー?」「ありがとうございましたー」
当時の僕が発した三大ワードといえば大体こんなもんであった(多分語尾に「僕東大卒ですけどー」と付いてた)。
今思えばさぞかし親しみづらい店員だったに違いない。
さて、いい歳した大学出の男がそんなんでいいのか、いやいいわけがない(反語)。
実はぷらぷらしている間に研修を受けさせられたため、コンビニの店長にはいつでもクラスチェンジできる状態にあった。
このままバイトだかなんだかよくわからない状態を続けるくらいであれば、思い切って「踊れる☆店長」として華麗に茨城コンビニ界デビューをするのも選択肢の一つではあった。
しかし、僕は実家を継ぐのは絶対に嫌であった。
コンビニエンスストアの経営者は過酷な職業である。
24時間経営のため店には必ず人がいなくてはならない。
仮に深夜勤のアルバイトが急に来れなくなろうものなら代わりを探さねばならないが、そういった際に代打が都合よく見つかることはほぼない。
ではどうするかといえば、オーナーもしくは家族がその穴を埋めるのだ。
子供のとき、夜のバイトが急に休んだことを伝えるために父を起こしに行くのが嫌だった。
父が夕方までの勤務を終えて食事をしてようやく寝たばかり、みたいなタイミングは特に最悪だった。
アルバイトがこないことを怖々告げると、人でも殺しそうな顔をした父はそれでも起きて仕事に行った。
子供心になんて父は偉くて、かわいそうなのだろうと思っていた。
しかしなんということでしょう……幸いにもうちの父は体がものすごく強かったのです。
大学時代は柔道経験もあり新聞配達を4年間続けたという剛の者で、こんな現代のリアル蟹工船にも耐えうるHPと装甲とを兼ね備えた鉄(くろがね)の城。
それが僕の父であった。
60過ぎた現在も病気ひとつせずピンピンしており、週に4日は趣味のテニスをしているアクティブっぷりである。
正直いま殴り合いの喧嘩をしても間違いなく勝てない自信がある。
残念ながら僕には現在まで父の遺伝子は発現しておらず、ガタイがヒョロい・色が白い・すね毛が濃いというヘレンケラー並みの3重苦にもがき続けている。
あまりの体力差に父にはよく「本当にワシの子か?」と疑いの目を向けられたものだ。
が、これまた残念ながら成長するに従って僕と父の顔つきは酷似してきており、彼の血を引いているのは間違いなさそうだ。
そういうわけで、父と比べて自分の弱っちさをよく理解していた僕は泣く泣くダンシング店長の道を諦めた。
となれば残された道は何か?
現在自分は確かに腐っている。
しかしこういうではないか、「腐っても鯛」と。
一応これでも東大卒なのだ、アカデミックな方向で競技ダンスに関わっていくことはできないか。
そう、例えば東大の大学院に入ってスポーツ科学で競技ダンスを研究するとか。
この時僕は自分の進むべき方向をようやく見つけたような気がしていた。
これなら「東大卒」のプライドも面目も保てるし、大学教員なんて好きなことをしてお金をもらえる最高の仕事だと手放しで希望溢れる未来を思い描いていた。
そう、確かに「腐っても鯛」と言う。
しかしこうも言えないか。
「鯛だけど、腐ってる」とも。
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