「東大卒なのになんでダンスのプロなんかになっちゃったの?(仮)」vol.7
アマチュアダンサーになる
大学生活があと1年あるので、自分の中ではダンスを続けることは決まっていた。
当時の僕はこらえ性がなく、アマチュアダンサーは男性が超売り手市場なのをいいことにいろいろな人と組んでは解消するという流れを繰り返した。
そのため当時はまったく知らなかったが、「組んだ女の子に手を出してはすぐに違う子に乗り換える」という噂を立てられていたらしい。
もし本当にそんなことができていたらどんなにいいだろうと思うが、現実には組んだ相手に何かしたような事実は一切ない。
だいたいそんなにモテたらとっくに別の人生歩んどるわ!
こんなくだらん文章書いてないわ!
まあそれはさておき、アマチュアでダンスをしつつなんとか大学を卒業した僕は「モラトリアム学生」から「なんちゃって会社員」にジョブチェンジした。
就職活動は内定をもらえず焦っていたとき適当に受けてうかつにも僕に内定を出した会社にスライディングした。
通勤が不便なのにもかかわらず練習場のすぐそば(歩いて1分)に引っ越し、定時が近づくと早く帰って練習したくてソワソワしていた。
練習場の営業は10時過ぎまでなので、定時で帰れば3時間くらいは動ける。
給料をもらって経済的に余裕ができ、毎日通うのも苦にならなかった。
こうして幸運に入社できた職場でダンスをしながら会社員ごっこを謳歌していた僕だったが、あくまでごっこなので仕事に身が入るはずもない。
一度教えてもらった書類の書き方がわからないのだー、とバカボンのパパ並みの事態に陥ることも日常茶飯事だった。
ご自慢の「まったく仕事をやる気がない」能力は毎日毎日鉄板の上ならぬパソコンの前でいやんなっちゃうほど発揮されていた。
さすがに現実は「これでいいのだ」とはならず、隣の席の先輩女子社員(巨乳)に毎日いびられてストレスは日々その最高値を更新していた。
そのためますますダンスにのめり込み会社を軽視する、仕事がわからない、怒られる、ダンスに(以下略)という負の無限スパイラルに突入していた。
そんな状況では喧嘩して海に逃げ込むまでもなく、会社は1年もたずに辞めた。
帰省した茨城では、家業のコンビニエンスストアを手伝いながら理学療法士になるために大学に再入学するための受験勉強をしていた。
パートナーもいない状態で一人で練習するシャドーの神っぷりは健在であったが、この期に及んでも僕にはダンスのプロになろうという考えは毛頭なかった。
プロになるなんてそれこそ馬鹿だと思っていた。
ダンスのプロなんて大きな怪我をしたらそこで終わりだ。
会社員や公務員と違って身分の保証もない。
収入も社会的地位も低い。
自分のようなレベルの人間がプロになっても勝てるわけがない。
「東大卒なのにダンスのプロなんかになるわけがない」。
こんな甘えた考えの人間が理学療法士になろうといっても中身はたかが知れたもので、東大卒の能力で筆記には受かったものの面接で落とされる結果となった。
「相手に見る目があったんですね」と、至極真っ当なお言葉を後日ある方に頂いた。
生きていくためには次の一手を探さねばならない。
しかし自分の所属するところがどこにもないという事実は僕の精神を蝕みつつあった。
改めて公務員を目指すとか医学部に再入学するとか口では言っていたものの、本気で実行するわけでもなく、中高時代に戻ったかのように連日漫画とゲームに浸ってばかりいた。
働く場を見つけることが目的の職業安定所にも、行くのは失業保険を受け取る申請をするときだけ。
職安ではどう見てもそれはちょっと、という感じの人たちが大勢たむろして失業保険の申請をしていた。
例えば茨城名物(?)のヤンキー(もれなく男女取り揃えられていた)、定年後であろうおじさん(だいたいくたびれた長袖ポロシャツとベージュのチノパン)、なんで来てるのかよくわからないおばさん(ほんとになんで来てたんだろう)、その他もろもろの人種が一堂に会していた(まともっぽい人もいたにはいた)。
しかしそう思う僕もまた、間違いなくそのうちの一人であった。
職安に行って失業保険の申請をするたびに、お金をもらえる嬉しさと同時に言いようのない不安に包まれていたことをよく覚えている。
そのうち失業保険をもらえる期間も切れ、職安に顔を出すことすらなくなった。
僕は急速に腐敗しつつあった。
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