可もなく不可もなく
これが最近の僕の標語みたいなものになっている。
一般的にはあまり良いイメージがない言葉だと思う。
あくまでもそこそこ、という感じだろうか。
しかし、よく考えてみればこれは別の意味にも解釈できると気がついた。
別の言葉で言えば、例えば「あるがまま」とか言い換えられる。
こうすると悪い意味に取る人はあまりいないだろう。
最近よく武術関係の本を読んでいるのだが、よく「平常心」とかそれに関する言葉が出てくる。
生死の境にある剣士たちについて書かれた本が日常のような心持ちを強調する理由は緊張や気負い、それに必然的に付随する力みが体の動きを妨げ、それが即死に直結するからだろう。
ダンスの試合ではさすがに命を直接やり取りすることはないが、ダンスの成績やその積み重ねによってその後のその人に対する評価や待遇、立場が大きく変わってくることを思えばこれもまた一種の命のやり取りと言えるのではないかと思う。
そういう状況で自分の持つ力を最大限発揮するためにはどうすればいいか?
現時点での僕の答えが「可もなく不可もなく」になる。
これは「できることをしっかりやる、できないことをやろうとしない」と言うこともできる。
火事場の馬鹿力という故事もあるが、これは本当にその場で死ぬか生きるかの場面でしか出てくることはないものだと思う。
その場での生き死にがかかっていない試合で実力以上のものは出ないし、出ようがない。
仮に実力以上のものが出たという評価を得たときは、それはもともと自分の実力を発揮できていなかったということなのだと思うようにしている。
そもそも刀での斬り合いのような状況ですら平常心が強調される。
試合のときだけ「自分でない何者か」になろうとしてもそれは無理な話だ。
できるのはただ最大限の「可もなく不可もなく」なのではないか。
最近そう思う。
一般的にはあまり良いイメージがない言葉だと思う。
あくまでもそこそこ、という感じだろうか。
しかし、よく考えてみればこれは別の意味にも解釈できると気がついた。
別の言葉で言えば、例えば「あるがまま」とか言い換えられる。
こうすると悪い意味に取る人はあまりいないだろう。
最近よく武術関係の本を読んでいるのだが、よく「平常心」とかそれに関する言葉が出てくる。
生死の境にある剣士たちについて書かれた本が日常のような心持ちを強調する理由は緊張や気負い、それに必然的に付随する力みが体の動きを妨げ、それが即死に直結するからだろう。
ダンスの試合ではさすがに命を直接やり取りすることはないが、ダンスの成績やその積み重ねによってその後のその人に対する評価や待遇、立場が大きく変わってくることを思えばこれもまた一種の命のやり取りと言えるのではないかと思う。
そういう状況で自分の持つ力を最大限発揮するためにはどうすればいいか?
現時点での僕の答えが「可もなく不可もなく」になる。
これは「できることをしっかりやる、できないことをやろうとしない」と言うこともできる。
火事場の馬鹿力という故事もあるが、これは本当にその場で死ぬか生きるかの場面でしか出てくることはないものだと思う。
その場での生き死にがかかっていない試合で実力以上のものは出ないし、出ようがない。
仮に実力以上のものが出たという評価を得たときは、それはもともと自分の実力を発揮できていなかったということなのだと思うようにしている。
そもそも刀での斬り合いのような状況ですら平常心が強調される。
試合のときだけ「自分でない何者か」になろうとしてもそれは無理な話だ。
できるのはただ最大限の「可もなく不可もなく」なのではないか。
最近そう思う。
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