「東大卒なのになんでダンスのプロなんかになっちゃったの?(仮)」vol.10
最終章(そして序章)
背水の陣という作戦がある。
古代中国で追い詰められた将軍が自軍をわざと川が背になるように配置した。
落ちたら死んでしまう兵隊たちは前方から攻めてくる敵軍と死に物狂いで戦い、ついには勝利を収めたという故事に基づく。
故意に自分を追い詰め、爆発的な力を引き出すことを狙ったものだ。
自分の状況はこれに非常に近かった。
一つだけ異なるのは切羽詰まった状況を作り出したのがわざとでなく受け身だったこと。
もっと言えば「流されて」だったということだ。
HEY YO
HEY HEY YO
HEY YO
HEY HEY YO
会社員にはなりたくない♫
だけど実家も継ぎたくない♫
ご飯食べなきゃ死ぬしかない♫
できることなどなんにもない♫
どうすりゃいいのかわかんない♫
残された道あれっきゃない♫
ラップ調に書くとこんな感じである。
20代の貴重な時間のほとんどを浪費して自分の選択肢を潰しまくってきた。
つまらない見栄と世間体とにとらわれ、消去法に次ぐ消去法で生きてきた。
そんな僕にとってダンスのプロになることはまさに背水の陣(人生ver.)であった。
パンドラが禁じられた匣を開けてしまった時、あらゆる悪と災厄が世に放たれたという。
そうしてほとんど空になった匣の最後に残ったものが希望であった、とも。
僕の場合も状況は同じだった。
会社員も、大学院での研究もろくに出来なかった。
まともなことが出来ない、本当になにも出来ない文字通りの社会不適合者であった。
そんな僕ができると思える唯一のこと、それが社交ダンスであった。
もはや自分が東大卒であることなど、どうでもよくなっていた。
選べる道は一つしかなかった。
当時サード・ダンススクールの石原正三先生に習っていたため、「プロになりたい」という希望を話した。
清水の舞台から全力で加速をつけて飛び降りるフィーリングであった。
そこで帰ってきた返事は一言、「楽しいよ」であった。
正直、「軽っ」「返事軽っ」と思った。
また今は亡き石原市三先生ともお話させて頂き、「スターになりなさい」とのお言葉を賜った。
無事に就職先を確保できた僕は大学院の後半からスタジオに丁稚として出入りし始めた。
一方で修士論文のための研究に関しては周囲が助けてくれていたのにも関わらずこれ以上濁しようがないほどにお茶を濁し続けた。
その結果として面倒見のいい研究室の助教はある時期を境にあたかも僕が透明人間であるかのように「いない人」として接してくれるようになり、手伝ってくれた先輩からは「これって誰の研究なんだろうね」と心のこもったありがたいコメントをもらい、できる後輩からは腫れ物に触るように常に優しく扱われるという今思い出しても天国のような環境を与えられた。
こんな針の筵のような素敵な状態で作成された修士論文はすばらしく悲惨なものだった。
論文発表の質疑応答で「結局この研究で何がわかったの?」と聞かれて何も答えられず(だってなにもわかってないんだもの)、質問した当の先生が「ま、いいや」と質問を取り下げてしまうくらいグダグダのでろでろであった。
当初の志と目的はとっくの昔に見失い、結局何のために大学院まで行ったのか最終的には完全にわからなくなっていた。
通常ならこんなふざけたものは絶対に認められないはずだ。
しかし「こいつはもうアカデミックな世界に縁はないだろう」という温情判決だったのか、論文は受理された。
大学図書館の論文検索で探せば今でも見つかることだろう。
だがこれらすべての出来事も僕にとってはもうどうでもいいことだった。
28歳というプロとしては遅すぎるスタートを切り始める身(略せば切り身)として、ダンス以外のことに集中する余裕はなかった。
プロになった学連の先輩や後輩の中には既にトッププロとなり日本を代表するダンサーにまで上り詰めている人も多くいる。
学連時代ですら勝てなかった人間がそういう人たちと互角に、いずれはそれ以上に戦わねば未来はないのだ。
大学院のときと違い、プロという道の厳しさは痛いほど明確に理解できた。
それもこれも会社員、ニート、大学院と状況が変わっても、ほとんど毎日のようにダンスをずっと続けてきたからだろう。
思えば、どんなに状況が苦しくてもダンスと縁を切ろうと考えることはなかった。
何をしていてもダンスとは不思議につながっていた。
そういう意味では、プロになることはダンスを始めた大学生のときから決まっていたような気さえする。
ただ、自分が恐怖を肌で感じられる世界に飛び込むには僕は勇気が足りなすぎたのだ。
関わる人という人に迷惑をかけ、自分がやりたいことを誤魔化し続けてこれでもかと回り道した経験を経た今なら、それがはっきりとわかる。
僕は結局、はじめからダンスがしたかったのだ。
どうしようもなく追い詰められるまで、それに気づくことができなかったのだ。
「自分はプロになりたいのだ」とはっきり自覚したとき、電車の中にもかかわらず涙が止まらなかったことをよく覚えている。
周囲からはさぞかし不審な目で見られていたことだろう。
実際お母さんに連れられた女の子が「あのへんなひとないてるよー」と大きな声で報告していた。
そこはかっこいいお兄さんと言いなさい。
両親ははじめプロという不安定で将来食えるかどうかもわからない職業につくことを反対していた。
人の親として、当たり前といえば当たり前の反応であった。
しかしそこはさすが両親だけあって僕という人間をよくわかっており、最終的には「ここまできたらもう仕方ない」という理屈で諦めてもらった。
とめてくれるなおっかさん、背中の銀杏が泣いている。
大学院の卒業を待たず2月にJCFでプロとして競技会デビューを果たし、4月からサード・ダンススクールでスタッフとして勤務を始めた。
こうして幾多の紆余曲折を経て「東大卒の社交ダンスのプロ」は誕生したのだった。
正確に言えば「東大卒プロダンサー」ではなく「東大大学院卒プロダンサー」なのだが、この違いはダンス界では何の意味もないことは言うまでもない。
おわり
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