「東大卒なのになんでダンスのプロなんかになっちゃったの?(仮)」vol.6

卒部(卒業ではない) 
 ダンス部4年(大学は3年)になって本郷に進学したことに合わせて池袋に引っ越した。
 当時通っていたダンススクールには学割がなく、ダンスにお金を回したくて下宿先は風呂なしトイレ共同、その代わり家賃は3万円以下の格安物件を学生課で見つけて契約した。
浮いたお金を使って東京都北区十条(赤羽ではない)の競技ダンス愛好家が集う練習場に通う日々が続いた。
練習場にはシャワーがあり、家に風呂がなくてもそこで浴びれば良いというびんぼっちゃまも裸足で逃げ出すせこい計算もあった。
この頃になるとダンスは完全に自分の生活の一部となっており、「踊らないとなんか落ち着かない」レベルになっていた。
パートナーとの仲が良好でなかったため、一人で来て一人で踊って一人で帰ることもよくあった。
あまりに入り浸っていたため、そのうち「シャDOの神」というあだ名がついた(一人での練習をシャドーという)。
ここまでくると半ば病気であった。
 
 5月に迎えた春の六大学戦で、僕は学生競技ダンス人生のピークを迎えた。
ワルツで優勝、クイックステップでも準優勝できた。
大きな大会で優勝できたのも、Aに勝てたのも初めてのことだった。
さらにジャッジだった天野博文先生に決勝で1位を頂いており、これは本当に嬉しかった。
「自分でもやればできる」と、心からそう思った。
この時自分の写真が載ったダンス雑誌は今でも実家に大切に保管してある。
このときの自分はもみあげがルパン三世並みに長い。
ひょっとして天野先生はこのもみあげに1位をくれたのではないか?とか考えてしまうくらい長かった。
続く東部日本選手権でもワルツこそ決勝を逃したものの、スローフォックストロットで決勝入りを果たした。
僕は自他共に認めるトップ選手の一人になっていた。
そうして挑んだ夏の全日本戦で、僕は2次予選で落ちた。
 
前期で優勝していた分、このダメージはクロスカウンターのように効いた。
ここから僕の調子は下り坂をゴロンゴロン音を立てて転げ落ちていくことになる。
それはおむすびころりんも真っ青のひとりローリングストーンであった。
秋の六大学戦では東大の後輩にワルツ・スローフォックストロットとも負けて2位と3位。
秋の東部戦では2種目とも決勝に入れず、順位もちょうど春から1位ずつ下がるというおまけ付き。
そして引退試合である冬の全日本戦を迎えた(全日本戦は夏と冬に二回ある)。
僕は最後の種目に(やめときゃいいのに)もっとも強豪の集まるワルツを選んだ。
1年生で初めて冬全日本を見た時から、ワルツで決勝を踊れたらカッコいいと思っていたアホであった。
 
確かに冬全日本戦の熱気は人を狂わせる。
プロになった今でも、正直言ってあれ以上のものを味わったことはない。
学生競技ダンスをできるのは、たった4年間しかない。
その大学時代がフロア上で1分そこそこに濃縮されて流れ去っていく。
落ちた人間は泣く、上がった奴は叫ぶ。
そこかしこで。
それがこれまで見てきた僕にとっての冬全日本戦だった。
多少アホになるのも勘弁していただきたいところだ。
 
さて、無事1次予選を通過して2次予選を踊り終えた僕が待っていると、採点係りが準決勝に進める番号を紙に書き始めた。
僕の番号は356番。
40、144と書かれていき、253、274、次が381。
356は書かれなかった。
採点係はそのままm行ってしまった。
「書き漏れとか間違いとか、そういうのはないのか?」と思ったが、やっぱりそういうのはなかった。
引退試合はあっさりと終わった。
 
しかしこの結末は今思えば予想通りではあった。
「奇跡の逆転ファイター」がいないわけではないが、東部日本で決勝入りできない選手がそもそも冬の全日本戦で決勝に入れるわけもない。
エヴァンゲリオンの某キャラクター風に言えば「あんたバカァ?」である。
しかしこの時の僕の主観は「ものすごくレベルの高い肩透かしを食らった」だった。
何を言ってるのかさっぱりわからないと思うが、当時の僕にも何が起こったのかさっぱりわからなかったのだ。
そして僕は自分の学生競技ダンス人生が終わったという自覚のないまま、東大競技ダンス部を卒部した(卒業ではない)。

Daisuke & Kana

Japanese Professional Ballroom Dancer

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