「東大卒なのになんでダンスのプロなんかになっちゃったの?(仮)」vol.3

競技ダンスとの再会、そして入部へ
 無事東京大学文科Ⅲ類理科Ⅲ類ではない)に合格した僕は、「東大生」という存在になれた喜びもつかの間、悩んでいた。
大学入学後に何のサークルに入るか、である。
入学決定後に大学が開く説明会では、同時に学内のサークルと部活も新入生を勧誘しようと手ぐすね引いて待ち構えている。
ピカピカの新入生である僕も大量のパンフレットとビラを手渡されていた。
内容も様々で、行政機構の研究、テニス、民族音楽、囲碁……と挙げればきりがない。
茨城から東京にノコノコ出てきたイモボーイには無限の可能性が広がっているように感じられた。
ちなみに当時は渋谷センター街に行くと不良に恐喝を受けると本気で信じており昼間でも怖くて近寄れなかった。
スクランブル交差点の人の波に「東京はなんて人が多いんだぁ」とつぶやいたことを覚えている。
 
あまりに多い選択肢だったが、僕の中ではある程度絞り込む条件ができていた。
高校のとき僕は演劇部に所属しており、高校2年の引退試合である地区予選で敗北し県大会に進めなかったことがちょっとした心残りだった。
「大学に入ったら、勝てることをやりたい」という思い。
これが第一の軸になった。
また、母からは大学に入ったら何か運動をやるように勧められていた。
僕は生後6ヶ月で一度死にかけているせいか生来体が弱く、母は体を鍛えることで少しでも丈夫になって欲しいと考えていたのだろうと思う。
いつも母には逆らってばかりいたのだが、この時はなぜか今まで縁遠かった「運動」をやってみよう、という気分になっていた。
これが第二の軸だった。
最後に「どうせやるならきちんとやりたい」というオタク気質がちょっぴり顔を出したことも付け加えておきたい。
 
この条件を兼ね備えるものは大学公認の運動会(東京大学では体育会のことをこう呼ぶ)に所属する「部活」しかない。
当時の僕はそう判断し、サークルその他はすべて切り捨てて運動部を紹介する冊子を穴があくほど熟読した。
候補に上がった「東大で勝っている部活」がアメフト、ヨット、そして競技ダンスだった。
以下は当時の僕の思考の流れである。
アメフト……どう考えても体格的に厳しい。そもそも怪我が多そうなので嫌。よって却下。
ヨット……ヨットで日焼けするのは肌が弱い自分には厳しい。海外遠征もあるだろうしお金かかりそう。よって却下。
競技ダンス……怪我も日焼けもしなさそうだし、体格的にもいけそう。お金もシューズ以外かからなそうだし、未経験者から全日本チャンピオンも出ている。これなら自分にもできそう。
 
まったく今思い出しても我ながら「それはどうなの?」と感じる微妙な動機である。
だいたい高校でヒップホップもどきを少しやったくらいで社交ダンスを踊ったこともないのに「これなら自分にもできそう」とかもう、殴り倒してやりたいぐらいである。
「ダンスなめんじゃねえ!」と説教してやりたい。
 
しかしその時の僕は「もうここしかない」と思い込んでいた。
思いの強さのあまり、上級生のふりをして新入生を勧誘していたくらいだ(先輩たちには相当うざったがられていたが、当時の僕が気付く由もなかった)。
新入生に簡単なダンスを踊ってもらう勧誘イベントでは人を乗せるのがうまい先輩たちに「上手い上手い」とおだてられ、全日本チャンピオンまで昇りつめるバラ色の未来しか想像していなかった(入部してすぐに現実を思い知ることになるが)。
 
とにかくこうして僕は競技ダンス部へ入部した。
さらに無事大学でも早々に「変な人」ポジションをがっちり確保するおまけつき。
思えばこれが今日まで続く競技ダンス人生の本格的な始まりだった。

Daisuke & Kana

Japanese Professional Ballroom Dancer

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