まじめな話その2
今回はかなり大上段から書いた話です。
正直読んでいて不快になる方もいるかもしれません。
そういう方は、途中でも読むのをやめていただくことをおすすめします。
ではよろしいでしょうか。
社交ダンスは元々が西洋のダンスです。
現在世界中で踊られているダンスは様々ありますが、中でも社交ダンスは白人優位のダンスと言ってよいのではないかと思います。
優位というのは何かと言えば、例えばブレイクダンスでは韓国のチームが何度も世界チャンピオンとなっているそうですが、社交ダンスでその手の話はまず聞かない、ということです。
アジア系の非白人でチャンピオンとなった例外としては先日のUK選手権アマチュア部門で優勝したヤン・チャオとタン・イー・リン組がいますが、これは現在世界のダンス団体が二つに分かれてしまった結果です。
基本的に白人以外は勝てない構造になっているといっても過言ではないでしょう。
例えば、社交ダンスには黒人選手はほとんどいません(多少はいます)。
なぜか?
ものすごく差別的な言い方をすれば、「黒人が社交ダンスを踊っても様にならないから」ではないかと思います。
そのような価値観で現在までの社交ダンスが成り立っているからだと言えるかもしれません。
これは今現在の僕たちの価値観に関わってくる問題でもあります。
なぜ広告には白人女性ばかりが採用されるのか?
多分、僕を含めた多くの人がそれを美しいもの、素晴らしいものだと感じるからでしょう。
黒人がメインで出てくる広告は現在でもほとんどないはずです。
出てくるとしてもソフトバンクの宣伝のようにお笑い担当などの端役であって主役ではない。
なぜかといえば、黒人をそのような扱いにとどめておく価値観をたくさんの人が持っているからではないかと思います。
さて、社交ダンスの審査は主観によって行われます。
当然、意識的にせよ無意識的にせよ審査員が持っている価値観が審査結果に現れてくるはずです。
そして、その価値観はダンスの審査結果だけでなく審美眼に影響していないか。
「美」とは何か、と問われて即答できる人はほとんどいないでしょう。
しかし、現に競技ダンサーは「美」を競うことを職業としています。
では、「美」とは何か?
僕を含めて多くの人のお手本となるのは、いつも海外で優れた成績を残す多くの白人ダンサーたちです。
勘違いしてほしくないのですが、海外選手たちの素晴らしさを否定するつもりはありません。
真摯にダンスに臨み、人生をダンスに賭けてきた希有な人々だと思っています。
しかし、彼らを優れた存在として素直に模倣することは危険ではないか。
いや、模倣は確かに必要なのだけれども、かといって僕たちは白人ではありません。
彼らの技術を見て感嘆する一方で、どこか違和感を拭えない自分もいることがわかるのです。
僕は彼らではない。
ならば、僕は彼らの伝統を学び、技術を消化し、僕自身が納得できる何かを目指すべきではないか。
第三者から見たら西洋踊りの下手な猿真似にしか見えなかったとしても、それが自分の道なのではないか。
そうはいっても、その何かは簡単には出来ません。
ひょっとしたら、この方向は間違っているかもしれない。
そもそも、そんなに簡単に解決するようならこんな悩みは抱きません。
夏目漱石は日本の文明開化を「外発的」であり、「皮相上滑り」と評しました。
そして、そうであっても「泪を飲んで上滑りに滑って行かなくてはならない」とも。
いち社交ダンサーとしての自分自身の中で、「文明開化」は明治以来100年余を経ても今だ上滑りを続けているように感じられます。
正直読んでいて不快になる方もいるかもしれません。
そういう方は、途中でも読むのをやめていただくことをおすすめします。
ではよろしいでしょうか。
社交ダンスは元々が西洋のダンスです。
現在世界中で踊られているダンスは様々ありますが、中でも社交ダンスは白人優位のダンスと言ってよいのではないかと思います。
優位というのは何かと言えば、例えばブレイクダンスでは韓国のチームが何度も世界チャンピオンとなっているそうですが、社交ダンスでその手の話はまず聞かない、ということです。
アジア系の非白人でチャンピオンとなった例外としては先日のUK選手権アマチュア部門で優勝したヤン・チャオとタン・イー・リン組がいますが、これは現在世界のダンス団体が二つに分かれてしまった結果です。
基本的に白人以外は勝てない構造になっているといっても過言ではないでしょう。
例えば、社交ダンスには黒人選手はほとんどいません(多少はいます)。
なぜか?
ものすごく差別的な言い方をすれば、「黒人が社交ダンスを踊っても様にならないから」ではないかと思います。
そのような価値観で現在までの社交ダンスが成り立っているからだと言えるかもしれません。
これは今現在の僕たちの価値観に関わってくる問題でもあります。
なぜ広告には白人女性ばかりが採用されるのか?
多分、僕を含めた多くの人がそれを美しいもの、素晴らしいものだと感じるからでしょう。
黒人がメインで出てくる広告は現在でもほとんどないはずです。
出てくるとしてもソフトバンクの宣伝のようにお笑い担当などの端役であって主役ではない。
なぜかといえば、黒人をそのような扱いにとどめておく価値観をたくさんの人が持っているからではないかと思います。
さて、社交ダンスの審査は主観によって行われます。
当然、意識的にせよ無意識的にせよ審査員が持っている価値観が審査結果に現れてくるはずです。
そして、その価値観はダンスの審査結果だけでなく審美眼に影響していないか。
「美」とは何か、と問われて即答できる人はほとんどいないでしょう。
しかし、現に競技ダンサーは「美」を競うことを職業としています。
では、「美」とは何か?
僕を含めて多くの人のお手本となるのは、いつも海外で優れた成績を残す多くの白人ダンサーたちです。
勘違いしてほしくないのですが、海外選手たちの素晴らしさを否定するつもりはありません。
真摯にダンスに臨み、人生をダンスに賭けてきた希有な人々だと思っています。
しかし、彼らを優れた存在として素直に模倣することは危険ではないか。
いや、模倣は確かに必要なのだけれども、かといって僕たちは白人ではありません。
彼らの技術を見て感嘆する一方で、どこか違和感を拭えない自分もいることがわかるのです。
僕は彼らではない。
ならば、僕は彼らの伝統を学び、技術を消化し、僕自身が納得できる何かを目指すべきではないか。
第三者から見たら西洋踊りの下手な猿真似にしか見えなかったとしても、それが自分の道なのではないか。
そうはいっても、その何かは簡単には出来ません。
ひょっとしたら、この方向は間違っているかもしれない。
そもそも、そんなに簡単に解決するようならこんな悩みは抱きません。
夏目漱石は日本の文明開化を「外発的」であり、「皮相上滑り」と評しました。
そして、そうであっても「泪を飲んで上滑りに滑って行かなくてはならない」とも。
いち社交ダンサーとしての自分自身の中で、「文明開化」は明治以来100年余を経ても今だ上滑りを続けているように感じられます。
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